Interview
都市の未来を考える
京都大学 人と社会の未来研究院 教授
広井良典さん
1961年岡山市生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院修士課程修了後、厚生省勤務、千葉大学法政経学部教授をへて2016年より現職。この間2001-02年MIT(マサチューセッツ工科大学)客員研究員。専攻は公共政策及び科学哲学。環境・福祉・経済が調和した「定常型社会=持続可能な福祉社会」を提唱している。『日本の社会保障』(岩波新書)でエコノミスト賞、『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で大仏次郎論壇賞受賞。他に『ポスト資本主義』(岩波新書)、『人口減少社会のデザイン』(東洋経済新報社)など著書多数。内閣府・幸福度に関する研究会委員、国土交通省・国土審議会専門委員、環境省・次期生物多様性国家戦略研究会委員等を務める。
(1)都市と公共性。“パブリック”の未来とは?
これからの都市の“公益性”はどのように創られていくことが望ましいか?
−「公共」という分野は国や行政が主体となってやるべきではないか? いつの間にか生活者である市民の側にはそのような認識が定着してしまい、 “人々のために”という領域を自らの事として考えない、他人事として捉える傾向が高くなっているように感じています。また、それらは、あらゆる社会の課題にも残念ながら根底では結びついている要因の1つであるようにも考えています。市民、行政、企業がこれからの都市という「パブリック」な状態を共に創っていくためには、どのような方向性に向かっていくことが望ましいとお考えでしょうか。
広井:都市と公共性という意味においては、二つお話ししたいことがあります。
まず、一つめに“経済と倫理”の分離と再融合という話をします。“経済と倫理” の関係性をどう捉えるかというと、一言で言えば、“経済と倫理” が分離してしまっていたのが再融合する時代になりつつあるということです。江戸時代においては、農業を基盤とする循環型の社会の姿があり、ある種の定常経済が出来上がっていた。その頃は “経済と倫理” “経済と公益性” が重なり合っていた。近江商人の「三方よし」の考え方もそういったものの流れの一つにあります。
思想家の二宮尊徳という人がいますが、明治以降において “国家の道徳に奉仕した偉い人” というイメージが勝手に作られてしまっているのですが、本来は地域再生に尽力した江戸時代後期における社会起業家と言ってもいいような人だったわけです。道徳と経済の一致について説いており、道徳だけでも空疎で地に足がつかないもの、経済だけでも表面的で長続きしないもの、よって道徳と経済を合わせることこそが重要である。それを「報徳思想」という表現をしています。このように江戸期においては循環経済が成り立つことで、“経済と倫理” は重なり合っている状況にあったのが、明治期以降は経済が大きくなっていきアジアの片隅にあった日本という小さな国が資本主義という洪水の中に巻き込まれていった。資本主義、つまり、経済を大きくしていく思想が広がっていた。
テツオ・ナジタさんというハワイ出身でシカゴ大学で永く教鞭をとっていた日系の方が「相互扶助の経済」という本を書かれました。非常に素晴らしい本です。もともと経済は相互扶助の経済だったと説いています。つまり、お互いに助け合うという無尽講(むじんこう)のような仕組みが日本各地に根付いていた。災害などに備えることもできた。それが、明治期以降の荒波の中で忘れられていったということですね。
資本主義が広がっていく中でも、渋澤栄一さんのような社会事業家は倫理とビジネスは長い時間軸を取れば一致するという「論語と算盤」という理論を打ち立てた。倉敷にある大原美術館を創設した事業家の大原孫三郎さんはアートや文化活動にも力を入れられたり、福祉事業、農業、社会問題の研究所を独自に設立するなど、社会事業や文化事業に経営者が自ら力を入れることが割と広く見られていた時代があります。
−今日、インタビューをさせていただいている先生の研究室がある「稲盛財団記念館」というこの場所も、京セラ株式会社の創業者稲盛和夫さんが創られた場所ですね。
広井:まさにそうですね。明治、大正頃までは、“経済と倫理”がかなり重なっていたのが、だんだん経済成長が加速する中で分離していってしまったわけです。福祉事業は国が基本的に行うことになっていた。良くも悪くも、公と私の分離といいますか、公的なことは政府が行う、企業は利潤を拡大すれば良いという二元論が広がり、パブリックとプライベートが分離してしまった。経済成長の時代はそれでよかったのですが、例えば、パナソニックの松下幸之助さんは、 “水道哲学” という考え方を唱えて、蛇口をひねれば水が出てくるように物が人々に安く行き渡るよう、自由に手に入ることが豊かな社会をつくること、そこに貢献していくということを重要視された。自社の利益を追求していくことが、広い意味では社会の福祉につながっていく。みんながそれで豊かになる、貧しい人も豊かになる。当時は、なおモノが不足していた時代でもあったので、“経済と公共性” が自ずと一致できたのです。
それが、だんだん経済が成熟化し格差が広がっていく。同時に経済が大きくなり、環境、資源の問題にぶつかっています。これらは、パブリックとプライベートを分離した結果であり、企業はひたすら利潤を拡大し格差や環境の問題は政府が事後的に調整すれば良いという発想が背景にあったわけですが、その枠組みがうまくいかなくなってきた。パブリックとプライベートの二元論が機能しなくなった。それが今日では、拡大していた経済が成熟段階になり、循環経済やサステナブルの今の流れは経済と倫理の再融合といって良い、パブリックとプライベートの再融合といってもいい、そういう局面に入っていると私は捉えています。
全体からみれば一部ですが、学生の時から起業したりする方が出てきています。私自身が8年前まで在籍していた千葉大の卒業生で馬上丈司さんが千葉エコ・エネルギー株式会社というソーラーシェアリングの会社を創りましたが、農業の再生と再生可能エネルギーの両立を生み出しています。別の卒業生で起業家になった学生は、自分がやりたいのは自己実現ではなく世界実現だと言っていました。世界を良くしたいという発想ですが、こうした最近の社会起業家の若い世代の考え方は、かつての “経済と倫理” が一致していた、今よりも二代前の経営者の方々と思想的には一致しており共鳴していると思います。そこに非常に期待が持てる。江戸時代の農業が基盤で、低い生産水準の定常経済から、高いレベルの循環経済と定常経済の両立への移行であり、今回のプロジェクトのようなテーマが社会起業家の動きからも浮かび上がっている。
−今、国が掲げている「新しい資本主義」における「成長と分配の好循環」の話でも、特に、“分配”の観点から考えると、税に対する認識は国や行政が市民のためにやってくれる、それが当たり前という認識があるというお話を以前先生から伺ったことがありましたね。いわゆる公益性があるものに対しての認識や意識が変わりつつはあるとは言えど、日本は特に離れてしまっている印象があります。先日インタビューをさせていただいた渋澤さんの見解では、欧米においては公益を自分ごと化をし、主体性を持って捉えているため、市民側が参加する議論が進んで行きやすいと。一方で、今日の先生のお話では、日本は本来は相互扶助の経済があり、“倫理と経済” の一致が文脈としてはあるはずで、そうなると、原点回帰すればいい、あるいは原点回帰に近い進化をしていくという発想になりますでしょうか。
広井:渋澤さんと少し認識が違うのは、私自身はアメリカに対しては批判的であるということです。なぜならば、格差が尋常ではないからです。市民が参加するという意味ではいいのですが。私自身はヨーロッパを高く評価していて、市民の公共意識が高く政府も役割を果たしていると。アメリカをモデルに考えることには批判的なのです。一方で、日本は原点回帰をすればいいということではない。
では、ここから2つめ、都市と公共性の「公共性」を本質的にどのように捉えるのか?という点についてお話しします。
“農村型コミュニティ” と “都市型コミュニティ” ということを取り上げて説明します。農村型コミュニティは、同質的な個人が一体化するような空気とか忖度の世界で、言葉で伝え合わなくても心を察することなど共同体的な一体感で物事が動いていくコミュニティを示します。それに対して、都市型コミュニティは集団を超えて異質な個人が繋がっていく。集団の中に埋もれていきがちな日本は農村型コミュニティの傾向が昔からある。個人が集団を超えていくのが都市型コミュニティ。日本社会は稲作を中心に構成された2千年の歴史がありますが、同質的な集団、閉じたものになりかねない。高度成長期における企業の男性社会のような閉じたものになる。
異質で多様な個人が繋がっていくことが今後の日本では非常に大事です。まさに、公共性は都市型コミュニティの話であり、農村型コミュニティは一言で言えば「共同性(コモン)」一体感の世界です。コモンとパブリック=公共性は異なるわけです。よくも悪くも、コモンは一体になる。コモンとパブリックは異なる。都市型コミュニティのパブリックが必要。これをいかに醸成していくか、発展していくか。「開かれた」ということが日本社会ではとても大事になってきます。 都市と公共性のテーマを京都と結びつけて考えると、京都については閉鎖的、排他的であるという問題を抱えていると思っています。公共性をどう広げていくのかというのは、京都にとっての大きな課題ですし、さらに京都だけを他から切り離して考えるのではなく、京都を開かれたネットワークの拠点として考えていくこと。本来の都市として考えるときは、様々な個人や地域をつなぐプラットフォームとして、新たな人たちがやってくる、新たな創発が生まれるような場所として捉えることが重要です。
−ちょうど、プロジェクトでは「どのように文化と経済の好循環を構造化していくのか?」ということにトライをしていまして、こちらが図版化したものになります。
広井:いいですね。私は、基本的に図が好きです(笑)。
−奥田武夫さん(オムロン株式会社 技術・知財本部 知的財産センタ センタ長)がメーカーの設計思想であるアーキテクチャの考え方をもとに作成した図なのですが、図版を作成する事例として、梨木神社のリサーチをしました。建物を維持する費用を賄うためにマンションを建てることを宮司がやむを得ないこととしてご判断をされたのですが、同時にコミュニティを再生させる役割を神社内に新しくできた珈琲店・株式会社COFFEE BASEという企業が担われています。京都で言うところの「一見さんお断り」をオープン領域とクローズド領域を繋ぐ「界面」として表現をし、分析をしています。界面の “際” のところで、文化的な経済活動を持続可能なものとしてやるために必要な分の資本をどのように取り入れるのかフィルタリングのような最適化をする役割を珈琲店が担っている。さらに分析していくと、いわゆる界面の設計を担える人は京都の歴史的にも色々な人がいたことがわかります。一方で、資金流入の規模とスピードが増大し過ぎると界面が大きく壊れてしまう。これは世界中のあちこちで起きている現象だと捉えています。だからこそ、京都という都市は、文化と経済の好循環というバランスをコミュニティごとに回復させていく、原点回帰という進化を遂げていく、回復させていくことがすごく必要になるのではないかと。
さらに、「ニジリグチコモンズ」という仮の名前を今回つけたのですが、グローバルマーケットと都市の間に関係性を再構築するインターフェースをつくる、最適化の役割を担うプラットフォームが仕組みとしてあれば、都市の側から見ても、対等な関係でマーケットとの対峙が可能になる。外と中を一致させながら適度に循環させるフィルタリング機能があれば資金流入のバランスも正常化できるのではという議論をしています。また、先ほど先生も仰っていたように、相互扶助の経済のバランスが江戸期までは京都も取れていたのではないかと。細い糸を通すように必要な分の資本が入り循環していた。そこに、資本が流入しすぎてしまうと、コミュニティとしても、都市全体としてもバランスが壊れてしまうのではないかと。これは京都に限った話ではありませんが。
広井:面白いですね。私は珈琲やカフェが好きですから(笑)。素晴らしいですね。私自身、鎮守の森コミュニティ研究所のプロジェクトもやっていますから、神社は私のキーワード中のキーワードです。社会科学の理論では、17世紀~18世紀頃のイギリスのカフェと公共性は重なるもので、つまり様々な個人が出会いコミュニケーションを行うという、公共性という意識の基盤をなしていたのがまさにカフェであるという考え方です。
−本プロジェクトでの “カルチャープレナー” とは何か?という議論をRound Table Discussion_1「都市と、創造性の循環」でも展開させていただきましたが、パブリックという境界線に入り、つなげたり、橋渡ししたり、フィルタリング的な役割を果たす人、もしくは仕組みのことを指すのではないかと、さらに分析を重ねています。エリアごとに分析をしていけばコーヒーに置き換わる何かがあり、細く長くずっと続けていけるような仕組みが浮かび上がってくるはずです。さらにグローバルマーケットともより良い接続を生み出し、より良い経済にしていくという発想がその背景にあります。
広井:鎮守の森は日本の都市や公共性を調べるにあたって非常に重要なもの。ヨーロッパは街の広場に教会が立っていて、教会が公共性の場でもあった。日本にはこういうものがないなと以前は思っていたのですが、ある時期からそうではないことに気が付きました。神社とお寺が8万箇所あって、コンビニの6万箇所よりも多い。神社は地域コミュニティの拠点として、ある種のコモンになっている。今回のテーマを考えていくには、神社、お寺、鎮守の森は一つのポイントになると思うわけです。アニメともつながりますが、そこでの自然観も大切です。
−梨木神社でも、新たな文化の創造だけではなく、文化財の保護など色々なことが含まれている。公益性が守られていることも含まれていて。収益を神社の修復費用に当てることが出来ているというお話しでした。
広井:鎮守の森コミュニティ研究所では、自然エネルギープロジェクトにもトライしていまして、小水力発電、神社と自然エネルギーを組み合わせて考えています。売電収入を環境改善に当てることで循環するという発想です。
(2)都市とデザイン。
都市における人間性と効率性のバランスをどのように捉えていくか?
−いわゆる一般的なスマートシティの構想は、得手して、デジタルと人間の創造性のバランスが失われがちであり、「効率性」の方向へやや加速しているようにも見受けられます。本来的には、人々の豊かな暮らしのために都市は創られていくものであり、一方で、経済合理性を優先するあまり「人間性が不在」と感じられるような場所になっていくと、結果的に、地価の高騰、人口の流出等の問題にも広がっていってしまい、都市としての創造性も失われていくように感じています。今後、都市におけるこのようなバランスを私たちはどのように意識すれば良いのか? ぜひご見解をお聞かせください。
広井:スマートシティの議論は以前からずっとあるのですが、日本はとにかく効率性やデジタルがスマートシティといった話の時に全面に出てくるが、私はそれに疑問をもっていて、「人間の顔をしたスマートシティ」という視点が重要と思っています。人間にとってくつろぐことができる空間、楽しく過ごすことのできる都市空間といいますか。先ほどのカフェの話ともつながりますが、ゆったりとした広い意味での人との繋がり、創発、新しいものが生まれてくるようなコミュニティ空間が何より重要なことを私の基本的な関心です。
そういう点からすると、ウォーカブルシティ(Walkable City)、つまり歩いて楽しめる都市という非常に重要な観点が、ヨーロッパの都市、とくにドイツでは大事にされていて、街に魅力を感じる。中心部から自動車を完全にシャットアウトして、歩行者のためのエリアが広がっている。日本はアメリカの影響が強く、自動車と道路中心の街になっている。全体的に「人間の顔をした」という点が失われている。回復していくことが非常に大きな課題だと思っているわけです。
京都に即していうと、観光地を中心として、点と面で言うと観光地の周辺は整っているが、都市全体としてはコミュニティ空間ではなく、車と自転車、歩行者が入り乱れている。改善して欲しいのは、車がかなり猛スピードで走っていたり、歩道を歩いていると自転車が後ろからきていたり、入り乱れている点です。そこに住まう人々、訪れる人々にとって、ゆとりのあるコミュニティ空間をもっと充実させる必要がある。
四条通りは歩行者だけのエリアにすることもなかなか実現出来ていないですね。コペンハーゲンには「ストロイエ」という、世界的に知られたぶらっと歩く、かなり長い歩行者の通りのエリアがあります。1960年代に、歩行者だけの空間を作ったわけです。初めはものすごい反対があったようですが、歩行者だけの空間を作ったことで非常に賑わいが出ている。クリエイティブと言う点においても豊かな都市になっていった。京都は創造性という意味では、ポテンシャルが非常に高いのですが、ウォーカブルな “カルチャープレナーゾーン”というのを思い切って、どこかにつくるのはどうでしょうね?
−鴨川沿いは良いですよね。京都では鴨川という存在がまさに大きいですよね。
広井:あれはいいですね。研究室の目の前も鴨川ですが、川沿いはすばらしいです。もともと自然に出来たわけではなく、氾濫を防ぐために造成したのが今の鴨川の姿なのですが、あのように都市空間の中にコミュニティ空間をつくることが大事ですね。それについては、この後でさらに詳しくお話しします。
(3)都市と自然。
一つの都市の中に、 文化価値、社会価値、環境価値を共存させるためには、
どのような公共政策のあり方が望ましいか?
−プロジェクトでも議論をしてきた「社会的共通資本と都市のあり方」から考察をしますと、京都のような伝統的な都市は、森、水、土、川などの自然環境と共に、あるいはそれを活かした人々の営みとしての産業、社会、文化、そしてその集合地である街=都市が独自に形成されてきた場所であると、改めて認識をしています。一方で、一つの都市の中に、文化価値、社会価値、環境価値を共存させることへの意識は、やもすると失われつつあるようにも見受けられます。今後はどのような公共政策があり方が望ましいと思われますか? または、公共政策だけで考えるのではなく、産業政策、文化政策とも、統合、連携した動きにしていくことが望ましいのか、ぜひご見解をお聞かせください。
広井:都市と自然、都市と政策、2つの観点に分けてお話をします。
まず、都市と自然という観点については、最近進められているデジタル田園都市に関連することからお話しします。 もともと田園都市というのはガーデンシティという、20世紀のはじめにイギリスの思想家・ハワードが唱えたものです。都市の環境が劣化していった時期に、ガーデンシティという自然と調和したものをガーデンシティと唱えた。ハワードは思想家だったんですが弟子のアウィンは建築家で、アウィンの本を読んでいると日本の話が出てくるのですね。春になると桜の木の下に人々が集まって過ごす光景に遭遇した、それをイギリスでもできればと。江戸時代〜明治初期は、日本の都市はガーデンシティ的なものを日本は既に持っていた。桜がさくと賑やかに騒ぐ様子も描かれている。明治期にはガーデンシティのようなものを既に日本が持っていたということですね。
先ほどの鴨川の話のように、日本の都市は本来自然と繋がっている。ガーデンシティから、さらに、エコロジカルシティ、つまり生態系都市という積極的に自然を都市の中に入れるようなことが、今まさに世界的なテーマになっていると思います。京都はエコロジカルシティ的な要素を含んでおり、鴨川も単に自然の川というよりも、災害を防止するものとして、人の手も入れながら、自然と調和するものとして出来上がったものです。京都の特徴としては、京都三山など自然そのものが都市景観の一部に入っている。この点を対外的に発信するのが重要です。
さらに、自然資本、生物多様性のことにも触れておきたいのですが、去年の3月まで、環境省の生物多様性国家戦略委員会に3年ほど参画していました。いま脱炭素、気候変動の話と同様に、自然資本、ネイチャーポジティブの議論が高まっている。都市と自然を捉え直していくことが重要で、鎮守の森とも繋がってくる。八百万の神様という日本の伝統的な自然観も活かしながら対応していくことが提言の中に盛り込まれました。これは、割とジブリ映画的な話ともつながるのですが、ご存じのように外国人が日本に興味を示す一番のきっかけが、アニメでして、八百万の神様、自然がいきているような発想が盛り込まれている。八百万の神、日本のアニミズム的文化は再評価していくに値するものです。
−渋澤さんのインタビューでも、現内閣が新しい資本主義の中で、文化、アニメというコンテンツをいかにグローバルマーケットに価値として伝えていくかという議論がなされているというお話しがありました。
広井:次に、都市と政策という観点についてお話しします。政策統合、ポリシーインテグレーションという言い方もありますが、文化政策、産業政策、農業政策、環境政策、福祉政策などを横断的に捉え統合することをパブリックポリシーという。大体、政策は縦割りになることが多い。政策分野ごとに縦型になりがちで、幸い霞が関に比べると自治体の方は色々な部署を回るので、自治体の方が政策統合はしやすい状況にあります。縦割りを乗り越えていきやすいとはいえ、縦割りがなお強い。政策という意味では、文化と経済や環境などを統合していく、それぞれの政策を縦割り的に考えるのではなくて、環境と経済、文化と経済を横断していくことが一つの契機になるのではないでしょうか。
私も共同研究を行ってきた「日立京大ラボ」では、政策提言AIというAIシュミレーションを2050に向けてやってきたのですが、これまでも、国レベルや、自治体ともやってきました。このように、いろんな分野を切り離して考えるのではなくて、様々な領域のデータを入れてシュミレーションをして全体をバランスのとれたものにするために、どういった政策を構築していくしていくのかを考えることが重要です。
−AI分析して、統合していくということですか?
広井:様々な領域の何百もの指標、データを入れてモデルを作るのですが、それらが文化と経済、文化と環境など、お互いに影響を及ぼしながら時間の流れとともに進化して未来が枝分かれしていく。その2万通りの未来を分析し、どの未来が望ましいのか、そこに行くにはどうしたらいいのかという分析の仕方をしています(日立京大ラボのホームページ参照)。
−ニジリグチコモンズ(仮称)というような構想についても、AI分析ができるとさらに面白いですね。例えば、グローバルマーケットとの間にどのようなシナジーが生まれるインターフェースのつくり方といったような分析が多様にできる。都市の未来をシュミレーションしてみて、それらを素地に議論をさらに展開していくことにも挑戦してみたら良いかもしれませんね。
広井:まだまだ試行錯誤の状況ですが、網目のような繋がりから、AIを活用して定量的に分析をすることができるのはおもしろいことですよ。
−ところで、先生が描かれた、この図はなんでしょうか? トライアングル?
広井:私がよく描く図でして。公・共・私。公=政府、共=コミュニティ、私=マーケット、企業。これらが融合していき、真ん中に向かって矢印が伸びている。公・共・私の分裂ではなく、融合を示しています。
−先ほどの奥田さんとの文化と経済の好循環とは何かを読み解く分析においても、2050年の社会を見据えると<共=地域の自律化が進んでいく自律社会の成立><私=ビジネスの成立>、つまり、地域の自律化とビジネスのバランスが取れることで<文化の進化という新たな価値創造、価値観の創造>が生まれてくるのではないかという議論をしていたのですが。さらに構造を抽象化していくと、先生が描かれたトライアングルの図になるのではないかと思いました。
広井:私の中では基本的な理解で、社会のいろんなテーマを考えるにあたって、公・共・私は基本軸になる。共=相互扶助、私=交換、ここでの交換とは、ポランニーという経済学者が交換(exchange)といっていますが、実質的には利潤拡大を意味します。公=再分配。これら三者が融合していく。今の時代、民間企業が公益を考える。3つが融合するのがトライアングルにより生まれる価値創出の領域となるという考えです。
−価値、あるいは、シナジー的なものを意味するのでしょうか。
広井:これからの時代にこれまで3者が離れていたのが、融合していく時代の構造。それが望ましい価値を生み出すということですね。
最後に、もう一つ、クリエイティブ資本論の話をします。これは都市経済学者のリチャード・フロリダの議論で、クリエイティブ産業というのはサイエンスとか文化、デザインなどの領域をここでは示すのですが、こうしたクリエイティブ産業がこれからの資本主義を引っ張っていく。賛否両論ありますが、私はフロリダの理論は面白いと思っていています。フロリダの議論でおもしろいのは、こうしたクリエイティブ資本主義の時代においては、第一に貨幣に換算できない価値が重要になってくる、第二に場所、プレイスが重要になってくるということ。普通の資本主義の議論とは別で、よくある議論はグローバル化が進み、資本主義が天高く舞い上がっていくと場所とか地域は意味がなくなっていく議論であるのに対し、そうではなくまさに場所、プレイスが大事になってくる。京都も含め、今後は『場所性』が非常に重要になってくるということですね。
−まさに、一人ひとりのクリエイティビティが社会を創造していく“創造的都市”という構想へと繋がってくるお話しですね。本日はありがとうございました。
※インタビューは2024年1月に実施したものを再掲しています
京都市の「カルチャープレナーの創造活動促進事業」*にて採択され実施したプロジェクトの活動報告レポートより抜粋。本レポートは、京都市が目指す「文化と経済の好循環を創出する都市」をテーマに都市構造を読み解き、京都という都市が持続的に発展し続けるための構想を提案しています。
*令和5年度カルチャープレナーの創造活動促進事業〜カルチャープレナー等の交流・コミュニティ創出
Interview
都市の未来を考える
京都大学 人と社会の未来研究院 教授
広井良典さん
(1)都市と公共性。“パブリック”の未来とは?
これからの都市の“公益性”はどのように創られていくことが望ましいか?
−「公共」という分野は国や行政が主体となってやるべきではないか? いつの間にか生活者である市民の側にはそのような認識が定着してしまい、 “人々のために”という領域を自らの事として考えない、他人事として捉える傾向が高くなっているように感じています。また、それらは、あらゆる社会の課題にも残念ながら根底では結びついている要因の1つであるようにも考えています。市民、行政、企業がこれからの都市という「パブリック」な状態を共に創っていくためには、どのような方向性に向かっていくことが望ましいとお考えでしょうか。
広井:都市と公共性という意味においては、二つお話ししたいことがあります。
まず、一つめに“経済と倫理”の分離と再融合という話をします。“経済と倫理” の関係性をどう捉えるかというと、一言で言えば、“経済と倫理” が分離してしまっていたのが再融合する時代になりつつあるということです。江戸時代においては、農業を基盤とする循環型の社会の姿があり、ある種の定常経済が出来上がっていた。その頃は “経済と倫理” “経済と公益性” が重なり合っていた。近江商人の「三方よし」の考え方もそういったものの流れの一つにあります。
思想家の二宮尊徳という人がいますが、明治以降において “国家の道徳に奉仕した偉い人” というイメージが勝手に作られてしまっているのですが、本来は地域再生に尽力した江戸時代後期における社会起業家と言ってもいいような人だったわけです。道徳と経済の一致について説いており、道徳だけでも空疎で地に足がつかないもの、経済だけでも表面的で長続きしないもの、よって道徳と経済を合わせることこそが重要である。それを「報徳思想」という表現をしています。このように江戸期においては循環経済が成り立つことで、“経済と倫理” は重なり合っている状況にあったのが、明治期以降は経済が大きくなっていきアジアの片隅にあった日本という小さな国が資本主義という洪水の中に巻き込まれていった。資本主義、つまり、経済を大きくしていく思想が広がっていた。
テツオ・ナジタさんというハワイ出身でシカゴ大学で永く教鞭をとっていた日系の方が「相互扶助の経済」という本を書かれました。非常に素晴らしい本です。もともと経済は相互扶助の経済だったと説いています。つまり、お互いに助け合うという無尽講(むじんこう)のような仕組みが日本各地に根付いていた。災害などに備えることもできた。それが、明治期以降の荒波の中で忘れられていったということですね。
資本主義が広がっていく中でも、渋澤栄一さんのような社会事業家は倫理とビジネスは長い時間軸を取れば一致するという「論語と算盤」という理論を打ち立てた。倉敷にある大原美術館を創設した事業家の大原孫三郎さんはアートや文化活動にも力を入れられたり、福祉事業、農業、社会問題の研究所を独自に設立するなど、社会事業や文化事業に経営者が自ら力を入れることが割と広く見られていた時代があります。
−今日、インタビューをさせていただいている先生の研究室がある「稲盛財団記念館」というこの場所も、京セラ株式会社の創業者稲盛和夫さんが創られた場所ですね。
広井:まさにそうですね。明治、大正頃までは、“経済と倫理”がかなり重なっていたのが、だんだん経済成長が加速する中で分離していってしまったわけです。福祉事業は国が基本的に行うことになっていた。良くも悪くも、公と私の分離といいますか、公的なことは政府が行う、企業は利潤を拡大すれば良いという二元論が広がり、パブリックとプライベートが分離してしまった。経済成長の時代はそれでよかったのですが、例えば、パナソニックの松下幸之助さんは、 “水道哲学” という考え方を唱えて、蛇口をひねれば水が出てくるように物が人々に安く行き渡るよう、自由に手に入ることが豊かな社会をつくること、そこに貢献していくということを重要視された。自社の利益を追求していくことが、広い意味では社会の福祉につながっていく。みんながそれで豊かになる、貧しい人も豊かになる。当時は、なおモノが不足していた時代でもあったので、“経済と公共性” が自ずと一致できたのです。
それが、だんだん経済が成熟化し格差が広がっていく。同時に経済が大きくなり、環境、資源の問題にぶつかっています。これらは、パブリックとプライベートを分離した結果であり、企業はひたすら利潤を拡大し格差や環境の問題は政府が事後的に調整すれば良いという発想が背景にあったわけですが、その枠組みがうまくいかなくなってきた。パブリックとプライベートの二元論が機能しなくなった。それが今日では、拡大していた経済が成熟段階になり、循環経済やサステナブルの今の流れは経済と倫理の再融合といって良い、パブリックとプライベートの再融合といってもいい、そういう局面に入っていると私は捉えています。
全体からみれば一部ですが、学生の時から起業したりする方が出てきています。私自身が8年前まで在籍していた千葉大の卒業生で馬上丈司さんが千葉エコ・エネルギー株式会社というソーラーシェアリングの会社を創りましたが、農業の再生と再生可能エネルギーの両立を生み出しています。別の卒業生で起業家になった学生は、自分がやりたいのは自己実現ではなく世界実現だと言っていました。世界を良くしたいという発想ですが、こうした最近の社会起業家の若い世代の考え方は、かつての “経済と倫理” が一致していた、今よりも二代前の経営者の方々と思想的には一致しており共鳴していると思います。そこに非常に期待が持てる。江戸時代の農業が基盤で、低い生産水準の定常経済から、高いレベルの循環経済と定常経済の両立への移行であり、今回のプロジェクトのようなテーマが社会起業家の動きからも浮かび上がっている。
−今、国が掲げている「新しい資本主義」における「成長と分配の好循環」の話でも、特に、“分配”の観点から考えると、税に対する認識は国や行政が市民のためにやってくれる、それが当たり前という認識があるというお話を以前先生から伺ったことがありましたね。いわゆる公益性があるものに対しての認識や意識が変わりつつはあるとは言えど、日本は特に離れてしまっている印象があります。先日インタビューをさせていただいた渋澤さんの見解では、欧米においては公益を自分ごと化をし、主体性を持って捉えているため、市民側が参加する議論が進んで行きやすいと。一方で、今日の先生のお話では、日本は本来は相互扶助の経済があり、“倫理と経済” の一致が文脈としてはあるはずで、そうなると、原点回帰すればいい、あるいは原点回帰に近い進化をしていくという発想になりますでしょうか。
広井:渋澤さんと少し認識が違うのは、私自身はアメリカに対しては批判的であるということです。なぜならば、格差が尋常ではないからです。市民が参加するという意味ではいいのですが。私自身はヨーロッパを高く評価していて、市民の公共意識が高く政府も役割を果たしていると。アメリカをモデルに考えることには批判的なのです。一方で、日本は原点回帰をすればいいということではない。
では、ここから2つめ、都市と公共性の「公共性」を本質的にどのように捉えるのか?という点についてお話しします。
“農村型コミュニティ” と “都市型コミュニティ” ということを取り上げて説明します。農村型コミュニティは、同質的な個人が一体化するような空気とか忖度の世界で、言葉で伝え合わなくても心を察することなど共同体的な一体感で物事が動いていくコミュニティを示します。それに対して、都市型コミュニティは集団を超えて異質な個人が繋がっていく。集団の中に埋もれていきがちな日本は農村型コミュニティの傾向が昔からある。個人が集団を超えていくのが都市型コミュニティ。日本社会は稲作を中心に構成された2千年の歴史がありますが、同質的な集団、閉じたものになりかねない。高度成長期における企業の男性社会のような閉じたものになる。
異質で多様な個人が繋がっていくことが今後の日本では非常に大事です。まさに、公共性は都市型コミュニティの話であり、農村型コミュニティは一言で言えば「共同性(コモン)」一体感の世界です。コモンとパブリック=公共性は異なるわけです。よくも悪くも、コモンは一体になる。コモンとパブリックは異なる。都市型コミュニティのパブリックが必要。これをいかに醸成していくか、発展していくか。「開かれた」ということが日本社会ではとても大事になってきます。 都市と公共性のテーマを京都と結びつけて考えると、京都については閉鎖的、排他的であるという問題を抱えていると思っています。公共性をどう広げていくのかというのは、京都にとっての大きな課題ですし、さらに京都だけを他から切り離して考えるのではなく、京都を開かれたネットワークの拠点として考えていくこと。本来の都市として考えるときは、様々な個人や地域をつなぐプラットフォームとして、新たな人たちがやってくる、新たな創発が生まれるような場所として捉えることが重要です。
−ちょうど、プロジェクトでは「どのように文化と経済の好循環を構造化していくのか?」ということにトライをしていまして、こちらが図版化したものになります。
広井:いいですね。私は、基本的に図が好きです(笑)。
−奥田武夫さん(オムロン株式会社 技術・知財本部 知的財産センタ センタ長)がメーカーの設計思想であるアーキテクチャの考え方をもとに作成した図なのですが、図版を作成する事例として、梨木神社のリサーチをしました。建物を維持する費用を賄うためにマンションを建てることを宮司がやむを得ないこととしてご判断をされたのですが、同時にコミュニティを再生させる役割を神社内に新しくできた珈琲店・株式会社COFFEE BASEという企業が担われています。京都で言うところの「一見さんお断り」をオープン領域とクローズド領域を繋ぐ「界面」として表現をし、分析をしています。界面の “際” のところで、文化的な経済活動を持続可能なものとしてやるために必要な分の資本をどのように取り入れるのかフィルタリングのような最適化をする役割を珈琲店が担っている。さらに分析していくと、いわゆる界面の設計を担える人は京都の歴史的にも色々な人がいたことがわかります。一方で、資金流入の規模とスピードが増大し過ぎると界面が大きく壊れてしまう。これは世界中のあちこちで起きている現象だと捉えています。だからこそ、京都という都市は、文化と経済の好循環というバランスをコミュニティごとに回復させていく、原点回帰という進化を遂げていく、回復させていくことがすごく必要になるのではないかと。
さらに、「ニジリグチコモンズ」という仮の名前を今回つけたのですが、グローバルマーケットと都市の間に関係性を再構築するインターフェースをつくる、最適化の役割を担うプラットフォームが仕組みとしてあれば、都市の側から見ても、対等な関係でマーケットとの対峙が可能になる。外と中を一致させながら適度に循環させるフィルタリング機能があれば資金流入のバランスも正常化できるのではという議論をしています。また、先ほど先生も仰っていたように、相互扶助の経済のバランスが江戸期までは京都も取れていたのではないかと。細い糸を通すように必要な分の資本が入り循環していた。そこに、資本が流入しすぎてしまうと、コミュニティとしても、都市全体としてもバランスが壊れてしまうのではないかと。これは京都に限った話ではありませんが。
広井:面白いですね。私は珈琲やカフェが好きですから(笑)。素晴らしいですね。私自身、鎮守の森コミュニティ研究所のプロジェクトもやっていますから、神社は私のキーワード中のキーワードです。社会科学の理論では、17世紀~18世紀頃のイギリスのカフェと公共性は重なるもので、つまり様々な個人が出会いコミュニケーションを行うという、公共性という意識の基盤をなしていたのがまさにカフェであるという考え方です。
−本プロジェクトでの “カルチャープレナー” とは何か?という議論をRound Table Discussion_1「都市と、創造性の循環」でも展開させていただきましたが、パブリックという境界線に入り、つなげたり、橋渡ししたり、フィルタリング的な役割を果たす人、もしくは仕組みのことを指すのではないかと、さらに分析を重ねています。エリアごとに分析をしていけばコーヒーに置き換わる何かがあり、細く長くずっと続けていけるような仕組みが浮かび上がってくるはずです。さらにグローバルマーケットともより良い接続を生み出し、より良い経済にしていくという発想がその背景にあります。
広井:鎮守の森は日本の都市や公共性を調べるにあたって非常に重要なもの。ヨーロッパは街の広場に教会が立っていて、教会が公共性の場でもあった。日本にはこういうものがないなと以前は思っていたのですが、ある時期からそうではないことに気が付きました。神社とお寺が8万箇所あって、コンビニの6万箇所よりも多い。神社は地域コミュニティの拠点として、ある種のコモンになっている。今回のテーマを考えていくには、神社、お寺、鎮守の森は一つのポイントになると思うわけです。アニメともつながりますが、そこでの自然観も大切です。
−梨木神社でも、新たな文化の創造だけではなく、文化財の保護など色々なことが含まれている。公益性が守られていることも含まれていて。収益を神社の修復費用に当てることが出来ているというお話しでした。
広井:鎮守の森コミュニティ研究所では、自然エネルギープロジェクトにもトライしていまして、小水力発電、神社と自然エネルギーを組み合わせて考えています。売電収入を環境改善に当てることで循環するという発想です。
(2)都市とデザイン。
都市における人間性と効率性のバランスをどのように捉えていくか?
−いわゆる一般的なスマートシティの構想は、得手して、デジタルと人間の創造性のバランスが失われがちであり、「効率性」の方向へやや加速しているようにも見受けられます。本来的には、人々の豊かな暮らしのために都市は創られていくものであり、一方で、経済合理性を優先するあまり「人間性が不在」と感じられるような場所になっていくと、結果的に、地価の高騰、人口の流出等の問題にも広がっていってしまい、都市としての創造性も失われていくように感じています。今後、都市におけるこのようなバランスを私たちはどのように意識すれば良いのか? ぜひご見解をお聞かせください。
広井:スマートシティの議論は以前からずっとあるのですが、日本はとにかく効率性やデジタルがスマートシティといった話の時に全面に出てくるが、私はそれに疑問をもっていて、「人間の顔をしたスマートシティ」という視点が重要と思っています。人間にとってくつろぐことができる空間、楽しく過ごすことのできる都市空間といいますか。先ほどのカフェの話ともつながりますが、ゆったりとした広い意味での人との繋がり、創発、新しいものが生まれてくるようなコミュニティ空間が何より重要なことを私の基本的な関心です。
そういう点からすると、ウォーカブルシティ(Walkable City)、つまり歩いて楽しめる都市という非常に重要な観点が、ヨーロッパの都市、とくにドイツでは大事にされていて、街に魅力を感じる。中心部から自動車を完全にシャットアウトして、歩行者のためのエリアが広がっている。日本はアメリカの影響が強く、自動車と道路中心の街になっている。全体的に「人間の顔をした」という点が失われている。回復していくことが非常に大きな課題だと思っているわけです。
京都に即していうと、観光地を中心として、点と面で言うと観光地の周辺は整っているが、都市全体としてはコミュニティ空間ではなく、車と自転車、歩行者が入り乱れている。改善して欲しいのは、車がかなり猛スピードで走っていたり、歩道を歩いていると自転車が後ろからきていたり、入り乱れている点です。そこに住まう人々、訪れる人々にとって、ゆとりのあるコミュニティ空間をもっと充実させる必要がある。
四条通りは歩行者だけのエリアにすることもなかなか実現出来ていないですね。コペンハーゲンには「ストロイエ」という、世界的に知られたぶらっと歩く、かなり長い歩行者の通りのエリアがあります。1960年代に、歩行者だけの空間を作ったわけです。初めはものすごい反対があったようですが、歩行者だけの空間を作ったことで非常に賑わいが出ている。クリエイティブと言う点においても豊かな都市になっていった。京都は創造性という意味では、ポテンシャルが非常に高いのですが、ウォーカブルな “カルチャープレナーゾーン”というのを思い切って、どこかにつくるのはどうでしょうね?
−鴨川沿いは良いですよね。京都では鴨川という存在がまさに大きいですよね。
広井:あれはいいですね。研究室の目の前も鴨川ですが、川沿いはすばらしいです。もともと自然に出来たわけではなく、氾濫を防ぐために造成したのが今の鴨川の姿なのですが、あのように都市空間の中にコミュニティ空間をつくることが大事ですね。それについては、この後でさらに詳しくお話しします。
(3)都市と自然。
一つの都市の中に、 文化価値、社会価値、環境価値を共存させるためには、
どのような公共政策のあり方が望ましいか?
−プロジェクトでも議論をしてきた「社会的共通資本と都市のあり方」から考察をしますと、京都のような伝統的な都市は、森、水、土、川などの自然環境と共に、あるいはそれを活かした人々の営みとしての産業、社会、文化、そしてその集合地である街=都市が独自に形成されてきた場所であると、改めて認識をしています。一方で、一つの都市の中に、文化価値、社会価値、環境価値を共存させることへの意識は、やもすると失われつつあるようにも見受けられます。今後はどのような公共政策があり方が望ましいと思われますか? または、公共政策だけで考えるのではなく、産業政策、文化政策とも、統合、連携した動きにしていくことが望ましいのか、ぜひご見解をお聞かせください。
広井:都市と自然、都市と政策、2つの観点に分けてお話をします。
まず、都市と自然という観点については、最近進められているデジタル田園都市に関連することからお話しします。 もともと田園都市というのはガーデンシティという、20世紀のはじめにイギリスの思想家・ハワードが唱えたものです。都市の環境が劣化していった時期に、ガーデンシティという自然と調和したものをガーデンシティと唱えた。ハワードは思想家だったんですが弟子のアウィンは建築家で、アウィンの本を読んでいると日本の話が出てくるのですね。春になると桜の木の下に人々が集まって過ごす光景に遭遇した、それをイギリスでもできればと。江戸時代〜明治初期は、日本の都市はガーデンシティ的なものを日本は既に持っていた。桜がさくと賑やかに騒ぐ様子も描かれている。明治期にはガーデンシティのようなものを既に日本が持っていたということですね。
先ほどの鴨川の話のように、日本の都市は本来自然と繋がっている。ガーデンシティから、さらに、エコロジカルシティ、つまり生態系都市という積極的に自然を都市の中に入れるようなことが、今まさに世界的なテーマになっていると思います。京都はエコロジカルシティ的な要素を含んでおり、鴨川も単に自然の川というよりも、災害を防止するものとして、人の手も入れながら、自然と調和するものとして出来上がったものです。京都の特徴としては、京都三山など自然そのものが都市景観の一部に入っている。この点を対外的に発信するのが重要です。
さらに、自然資本、生物多様性のことにも触れておきたいのですが、去年の3月まで、環境省の生物多様性国家戦略委員会に3年ほど参画していました。いま脱炭素、気候変動の話と同様に、自然資本、ネイチャーポジティブの議論が高まっている。都市と自然を捉え直していくことが重要で、鎮守の森とも繋がってくる。八百万の神様という日本の伝統的な自然観も活かしながら対応していくことが提言の中に盛り込まれました。これは、割とジブリ映画的な話ともつながるのですが、ご存じのように外国人が日本に興味を示す一番のきっかけが、アニメでして、八百万の神様、自然がいきているような発想が盛り込まれている。八百万の神、日本のアニミズム的文化は再評価していくに値するものです。
−渋澤さんのインタビューでも、現内閣が新しい資本主義の中で、文化、アニメというコンテンツをいかにグローバルマーケットに価値として伝えていくかという議論がなされているというお話しがありました。
広井:次に、都市と政策という観点についてお話しします。政策統合、ポリシーインテグレーションという言い方もありますが、文化政策、産業政策、農業政策、環境政策、福祉政策などを横断的に捉え統合することをパブリックポリシーという。大体、政策は縦割りになることが多い。政策分野ごとに縦型になりがちで、幸い霞が関に比べると自治体の方は色々な部署を回るので、自治体の方が政策統合はしやすい状況にあります。縦割りを乗り越えていきやすいとはいえ、縦割りがなお強い。政策という意味では、文化と経済や環境などを統合していく、それぞれの政策を縦割り的に考えるのではなくて、環境と経済、文化と経済を横断していくことが一つの契機になるのではないでしょうか。
私も共同研究を行ってきた「日立京大ラボ」では、政策提言AIというAIシュミレーションを2050に向けてやってきたのですが、これまでも、国レベルや、自治体ともやってきました。このように、いろんな分野を切り離して考えるのではなくて、様々な領域のデータを入れてシュミレーションをして全体をバランスのとれたものにするために、どういった政策を構築していくしていくのかを考えることが重要です。
−AI分析して、統合していくということですか?
広井:様々な領域の何百もの指標、データを入れてモデルを作るのですが、それらが文化と経済、文化と環境など、お互いに影響を及ぼしながら時間の流れとともに進化して未来が枝分かれしていく。その2万通りの未来を分析し、どの未来が望ましいのか、そこに行くにはどうしたらいいのかという分析の仕方をしています(日立京大ラボのホームページ参照)。
−ニジリグチコモンズ(仮称)というような構想についても、AI分析ができるとさらに面白いですね。例えば、グローバルマーケットとの間にどのようなシナジーが生まれるインターフェースのつくり方といったような分析が多様にできる。都市の未来をシュミレーションしてみて、それらを素地に議論をさらに展開していくことにも挑戦してみたら良いかもしれませんね。
広井:まだまだ試行錯誤の状況ですが、網目のような繋がりから、AIを活用して定量的に分析をすることができるのはおもしろいことですよ。
−ところで、先生が描かれた、この図はなんでしょうか? トライアングル?
広井:私がよく描く図でして。公・共・私。公=政府、共=コミュニティ、私=マーケット、企業。これらが融合していき、真ん中に向かって矢印が伸びている。公・共・私の分裂ではなく、融合を示しています。
−先ほどの奥田さんとの文化と経済の好循環とは何かを読み解く分析においても、2050年の社会を見据えると<共=地域の自律化が進んでいく自律社会の成立><私=ビジネスの成立>、つまり、地域の自律化とビジネスのバランスが取れることで<文化の進化という新たな価値創造、価値観の創造>が生まれてくるのではないかという議論をしていたのですが。さらに構造を抽象化していくと、先生が描かれたトライアングルの図になるのではないかと思いました。
広井:私の中では基本的な理解で、社会のいろんなテーマを考えるにあたって、公・共・私は基本軸になる。共=相互扶助、私=交換、ここでの交換とは、ポランニーという経済学者が交換(exchange)といっていますが、実質的には利潤拡大を意味します。公=再分配。これら三者が融合していく。今の時代、民間企業が公益を考える。3つが融合するのがトライアングルにより生まれる価値創出の領域となるという考えです。
−価値、あるいは、シナジー的なものを意味するのでしょうか。
広井:これからの時代にこれまで3者が離れていたのが、融合していく時代の構造。それが望ましい価値を生み出すということですね。
最後に、もう一つ、クリエイティブ資本論の話をします。これは都市経済学者のリチャード・フロリダの議論で、クリエイティブ産業というのはサイエンスとか文化、デザインなどの領域をここでは示すのですが、こうしたクリエイティブ産業がこれからの資本主義を引っ張っていく。賛否両論ありますが、私はフロリダの理論は面白いと思っていています。フロリダの議論でおもしろいのは、こうしたクリエイティブ資本主義の時代においては、第一に貨幣に換算できない価値が重要になってくる、第二に場所、プレイスが重要になってくるということ。普通の資本主義の議論とは別で、よくある議論はグローバル化が進み、資本主義が天高く舞い上がっていくと場所とか地域は意味がなくなっていく議論であるのに対し、そうではなくまさに場所、プレイスが大事になってくる。京都も含め、今後は『場所性』が非常に重要になってくるということですね。
−まさに、一人ひとりのクリエイティビティが社会を創造していく“創造的都市”という構想へと繋がってくるお話しですね。本日はありがとうございました。
※インタビューは2024年1月に実施したものを再掲しています
京都市の「カルチャープレナーの創造活動促進事業」*にて採択され実施したプロジェクトの活動報告レポートより抜粋。本レポートは、京都市が目指す「文化と経済の好循環を創出する都市」をテーマに都市構造を読み解き、京都という都市が持続的に発展し続けるための構想を提案しています。
*令和5年度カルチャープレナーの創造活動促進事業〜カルチャープレナー等の交流・コミュニティ創出
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